「歴史は終わった」と宣言されたが
20代の頃『歴史の終わり/フランシス・フクヤマ』という政治経済学の本が話題になりました。
それは、『人類の歴史が終了する』という意味ではなく、
『人類の政治形態が完了形に至った』つまり
『古代の王による専制主義や中世の封建主義、軍国主義、ソ連の共産主義の終焉を以て、
民主主義こそ人類が到達した最終かつ最高の政治形態であり、これを上回る政治形態はないのだ』
ということです。
ところが近頃は、未来の政体は民主主義じゃなく次なる政体ではないか、と感じています。
民主主義は乗っ取られる
民主主義は本当に素晴らしいと思います。
一民衆が政治参加できる、自らの考えを政治に反映させられる、というしくみはまさに画期的です。
若い頃は、そのことに心の底から感動しました。
しかし、選択する民衆が、寡占されたマスメディアの大量の批判・非難によって自己否定や自己破滅に陥り、長く続いた信仰や伝統を手放したり壊す選択をしてしまったらー
そのように意図する悪意のある外国や勢力によって『乗っ取り』され変えられてしまったら-
信仰が失われたらその国は事実上滅んでしまいますし、現実に一度「乗っ取り成功」を宣言されてしまったことさえあります。
愚民による民主政治と英雄による専制政治
「愚民による民主政治と英雄による専制政治はどちらがいいのだろうか」
大好きな作品『銀河英雄伝説』で問われるテーマです。
作品では、愚かな民衆による衆愚政治によって2度も民主主義自体が消滅したのに対し、
英雄による専制政治は、政治の停滞や官僚の癒着による腐敗をドラスティックに改革し、最も効率よく政治運営できる、と描かれましたが、
それでも、どんなに愚かでも、民主政治の方が素晴らしい、という一貫した主張でした。
いえ、衆愚政治を嘆いているのではないんです、選択した政権が失敗してもいい、それも民意の反映ですので、そのこと自体が素晴らしい。
しかし影の目的がその国の信仰を破壊すること、文化を消滅させることだとしたら、一度失われたものがマヤ文明のように二度と戻らない可能性があり、失敗の経験なんてしてられないと思うのです。
意識のレベルの高い人間が政治家となる政体
現状ではよほどのことがない限り、民主主義から次の政体になることはないでしょう。
ただ、世界大恐慌が起きる可能性は小さくないですし、起きてほしくないですが世界的な戦争が起きないとも限りません。
もし、そんな大混乱を経て民主主義に代わる政体が求められたとするならば、その時、我が国の原風景である縄文がヒントとならないでしょうか。
巫女には神と交信する力が備わっており、それは死を超えたところの意識、死や霊の恐怖等を乗り越えた精神レベルであるので、既に欲・得などレベルは超越しています。
ですので、影の目的を持つ人間や自分の富と名誉しか興味のないような人間が政治家になることを排除することができると思うのです。
その政体については、【民主主義の次の政体②】で考察していきましょう。
コメントを残す