人と草木は仲間
漢字はもちろん、文字のない縄文時代には言葉は『音』だけであった。
例えば、人間には『目』『鼻』『歯』があるが、
縄文人は、『メ』『ハナ』『ハ』と発音のみを共有する。
そして、草木にも『メ』『ハナ』『ハ』の存在を認める。
後々に『芽』『花』『葉』という漢字を当てはめてしまったことで、見えるものが見えなくなってしまったが、かつては人と草木は仲間だったのだ。
コトダマ=言霊とは、このような基本思想を言う。
このようなコトダマを保有する縄文人であれば、争いが少ないのは当然であるだろう。
縄文の神/よみがえる精霊信仰
FB繋がりの方に素晴らしい本を紹介して頂きました。
目次を見て、いきなり読んだ箇所が上記の引用です。
一瞬にして、精神が次元の彼方に飛んで行ってしまうようです。
この本は、『縄文の神/よみがえる精霊信仰』という本で、著者は戸矢学さんです。
読み始めたばかりですが、前書きも素晴らしい。
我が国は言語も信仰も古来不変
私たち現代の日本人は、弥生以降の文化にすっかり染まって、縄文の名残など影も形もないかのようだ。ひと頃「縄文人と弥生人は別の民族である」「縄文から弥生になる時、民族の交替があった」「大陸や半島からの渡来人によって征服された」などという説がはびこっていたが、むろんそんなことはあるはずがなく、実は連続しているというのが近年の主流である。
江戸時代の日本人と第二次大戦後の日本人の体格・体型が異なる程度に、縄文人と弥生人は異なるというに過ぎないということだ。江戸から明治になる時に、「民族の交替があった」「渡来人によって征服された」などと主張する人はまさかいないだろう。
『連続』の根拠は、『言語』と『信仰』である。もし民族の交替があったり異民族による征服があったならば、言語と信仰は強制的に変えられているはずである。その実例は枚挙にいとまがない。たとえば中南米各国はスペインによる征服で、言語も信仰も変えられた。言語を奪い、神を殺すことが征服というものの本質である。インディオの人々がキリスト教の教会でスペイン語を話している様は、人類の罪深さそのものの証ではないだろうか。
我が国では言語も信仰も古来不変である。すなわち変わらなかったのは「大和言葉(言霊)」と「随神道(精霊信仰・自然信仰)」である。そしてこの二つのテーマを突き詰めると私たちの身体に「縄文」の濃厚な血脈が流れていることを認識することができるのだ。
とりわけ日本の民俗信仰である神道には、積年の装飾を剥ぎ取れば、その中核に素朴かつ強固な「縄文時代の信仰」が顕れる。そして、それこそは現代の日本人が今まさに希求しようとしているものではないかと私は考えている。これは日本および日本人の本質であり、「よみがえるべき未来」なのかもしれない。つまり、私たちにとって縄文という古代は、ルーツであると同時に、目指すべき未来でもあるのだ。
日本人にはみんな読んでほしい
まだ読み始めですが、既にここだけでも出会えてよかったです。
ご紹介して下さった方も、「日本人はみんな読んでほしい」とおっしゃってましたが、同感です。
たぶん読み進めばまだまだ意識を飛ばしてくれる箇所がたくさん出てくると思うので、このブログの【縄文から倭の日本】カテゴリーでたくさんご紹介することになると思います!
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