演題『上田藩主 松平忠固が開国を主導した』
平成30年3月3日、長野県上田市にて『松平忠固講演会』が開催されました。
前回、去年11月に開催されたシンポジウムではパネリストの一人でしたが、今回は一人で1.5時間話し通し、、
ということで、大役を仰せつかったわけですが、無事に済んで何よりでした!
お呼び下さった上田市の明治創立の伝統ある会の会長様や幹事様はじめ、スタッフの皆様には心より御礼申し上げます。
また、足をお運び頂きました皆様、本当にありがとうございました。
忠固が知られていない理由
上田の方でさえ、忠固のことをご存じなかったり、悪い印象をお持ちだったりします。
「知らない」というのは、日米和親・修好通商条約両条約が打倒された旧幕府の業績だったために、現在においても「無能で情けない幕府が脅されて条約を結ばされた」という固定概念が残り、教科書さえ正しい記述がなされてない、ということが大きいでしょう。
現代と違い、当時は政治は市民参加でなく政府が内々に進める文化だったために、当時の政治交渉資料が少ない、しかもその少ない資料が戦争等で失われた、ということもあります。
忠固が低評価される理由
そして知っていたとしても、その評価は限りなく低い、というのが現状です。
明治新政府の反対勢力であるばかりか、現在復権している幕府側の人達にとっても隠したい存在だからです。
実はペリー来航前から前向きに開国し交易によって国を富ませようと考えていたのは、おそらく忠固だけだったのですが(同志・同僚の阿部正弘は本心では打ち払いたかったので、水戸斉昭を登用した)、その開国政策をめぐって水戸斉昭と対立してきたその役回りは後の大老・井伊直弼に乗っ取られてしまっています。
直弼は大老になる前は阿部・忠固政権にクーデターを仕掛けた対立勢力であり、越前藩主・松平春嶽も忠固は政権入りを認めてくれない目の上のたんこぶであり、歴史的第一級資料である家臣の中根雪江の『昨夢紀事』は忠固の悪口であふれています。
その為、学術的には、忠固は「直弼の腰巾着」とか「傲慢で勅許を無視した子悪人」という評価である有り様です。
日本のために尽力してくれた方に正当な評価を
このような理由から、忠固の評価を変えることは簡単なことではないかもしれませんが、
その時代、権力だけを欲しようとした人がとても多い中で、彼の行動はまさに日本国のために行動したものであり、
汚名を着せられているような状況はあまりに申し訳ない気が致します。
微力ながら研究を進め、忠固の真の姿を浮き彫りにしていきたいと考えるとともに、
忠固を評価する方々、上田の方々を中心に、偉大な先人に感謝できる体制を整えていきたい、と考えております。
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