ペリー来航時の内閣(幕閣)は
『真の開国の父は松平忠固(忠優)である』という説を展開しておりますが、当時の内閣の変遷を辿ってみましょう。
1853年、ペリー来航及び日米和親条約締結時の幕閣は以下の通りです。
将軍:
徳川家慶 60 ペリー来航直後に死去
老中:
阿部正弘 34 首座
牧野忠雅 54 次席。阿部と協調
松平乗全 58 三位。忠優と協調
松平忠優 41 席次四位
久世広周 34 阿部と親戚
内藤信親 40 忠優と親戚
勘定奉行:
石河政平 在位12年。忠優辞任と共に辞任
松平近直 在位13年。阿部死去と共に辞任
将軍御用取次:
本郷泰固 在位21年。阿部死去と共に辞任
昔も今も、そしてどんな組織でも権限の掌握には2つのものが不可欠です。
① オーナーの支持
② 財務の掌握
上記を見ると、阿部首座が本郷泰固を通じてオーナーである将軍家慶と繋がり、勘定奉行松平近直を通じて財務を掌握しているのが分かります。
注目は、松平忠優です。
やはり長く勘定奉行を務める石河政平は松平忠優の側近です。
牧野が阿部の、乗全が忠優のそれぞれ補佐役的なポジションだったことからして、この内閣の中心は阿部と忠優だったと言えましょう。
しかも、和親条約の交渉役である代表・林大学頭は阿部に近く、次席の井戸覚弘は忠優の側近です。
阿部が死去するという不幸が・・・
幕閣の外には二つの勢力がありました。
一つが、水戸家の徳川斉昭、薩摩藩・島津斉彬、越前藩・松平慶永などの幕閣外の強大な雄藩。
もう一つが全国三百四候の大名のうち、徳川御三家を除いた最も家格が高い7家で、溜間と呼ばれる彦根・会津・高松・姫路・松山・忍・桑名藩で構成される名門家です。
いわゆる後の、尊王か佐幕か、というのはこの2勢力の争いであり、実は阿部政権下はこの2つの勢力とは根本的に違っていたのです。
ところが、1857年幕末最大の不幸かもしれません、阿部正弘が急死します。
1857年、死去時の幕閣は下記の通り。
将軍:
徳川家定 33
老中:
堀田正睦 47 首座。忠優退任の後任
阿部正弘 38
牧野忠雅 58 阿部死去と共に辞任
久世広周 38
内藤信親 44
勘定奉行:
松平近直 在位13年。阿部死去と共に辞任
川路聖謨 在位6年。1858年に辞任
水野忠徳 在位3年。1857年に辞任
将軍御用取次:
本郷泰固 在位21年。阿部死去と共に辞任
老中において、忠優と乗全が外れ、堀田正睦が入閣していますね。
これは水戸斉昭の溜飲を下げるため、開国の急先鋒だった忠優を外すという阿部の苦肉の策でした。
日米修好通商条約締結時の内閣
阿部が亡くなるとすぐに忠優が幕閣に復帰します。(忠固となる)
1857年、阿部死去後の内閣は下記のようになります。
将軍:
徳川家定 33
老中:
堀田正睦 47 首座
松平忠固 45 次席
久世広周 38
内藤信親 44
脇坂安宅 49 新任
勘定奉行:
川路聖謨 在位6年。1858年に辞任
水野忠徳 在位3年。1857年に辞任
そして、忠固は(あえて『忠固は』と言います)、攘夷を叫ぶ水戸斉昭に対抗するためにもう一方の勢力である溜間の筆頭・井伊直弼を大老に据え、日米修好通商条約を締結します。
1858年、日米和親条約締結時の幕閣は下記。
将軍:
徳川家定 34
大老:
井伊直弼 43
老中:
堀田正睦 48 首座
松平忠固 46 次席
久世広周 39
内藤信親 45
脇坂安宅 50
勘定奉行:
川路聖謨 在位6年。この年に辞任
将軍御用取次:
石河政平 井伊大老就任時に就任。在位3か月
私が忠固が当時の実権を握っていたとする最大の理由がこの人事です。
側近の石河政平を井伊大老就任と同時に将軍御用取次としたのです。
それは、オーナー家定の信頼を勝ち得ていたのは忠固であるのを示し、勘定奉行は古く尚歯会からのつながりのある川路聖謨で財務も抑えています。
幕府、終わりの始まり
井伊は日米修好通商条約締結のわずか4日後に忠固と首座の堀田を罷免します。
さらに大いなる疑惑が発生するのですが、そのわずか10日後に家定が急死し、将軍崩御発表と同時というあり得ないタイミングで、石河政平と前側役で若年寄に出世していた本郷泰固を罷免・禄没収という異例の処分をします。
かくして、井伊直弼は①のオーナーの支持を得て(新将軍・家茂はわずか12歳)実権を握り、忠固を追放するために共闘した越前慶永や水戸斉昭をも処分し、安政の大獄へと突き進んでいきます。
安政の大獄が桜田門外の変を生み、幕府の権威と力が衰退していくのは、教科書で習う通りです。
【画像】日米和親条約締結時のポーハタン号祝宴
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