【開国の父⑥】真の『開国の父』は隠蔽された

開国の父は井伊直弼?

締結時は決して不平等ではなかった日米修好通商条約。

条約締結を、開国を主導したのは、誰か。

一般的には、井伊直弼と言われています。

最近では井伊直弼を『開国の父』として評価する教科書もあるとか。

しかし直弼は、条約締結に獅子奮迅の活躍をした5人の初代外国奉行たちを締結後すぐ罷免し、機会があれば鎖国に戻そうとしていた節があることから、開国に強い意志を示していたとはとても言い難いものがあります。

 

ペリー来航時より開国を主張した唯一の人物

日米修好通商条約締結前夜、締結をあくまで渋る大老・井伊直弼に対し、強烈に条約締結を推進し半ば強引に調印に持っていった人物がいます。

当時の政府、幕閣の最高意思決定機関である老中、そのNO.2である次席老中・松平忠固その人です。

締結前夜の状況は、歴史的にも明白に認識されています。

実は、その松平忠固はペリー来航時、日米和親条約締結時も老中だったのです。

和親条約締結時は『松平忠優』という名前だったので、ただでさえ知る人が少ない上、この二つの名前が同一人物だと認識する人はほとんどいない有り様です。

ですが、彼こそが真の開国の父だと思わずにはいられません。

 

生糸輸出がそれを示している

老中・松平忠固は上田藩主です。

当時上田と言えば、日本一の養蚕・生糸産業の盛んな地域。

開国と同時に、生糸が輸出され生糸貿易がその後昭和に至るまで日本を支える主たる産業だったわけで、この上信越の生糸を開国に向けて周到に準備したのは、上田藩主だった彼だからこそできたことではないでしょうか。

直弼の彦根と生糸貿易は全くつながりがありませんし、開国時に日本全国の輸出の60%を占めた横浜の中居屋の帳面には、老中であり上田藩主である忠固がわざわざ店に来店した記録さえ残っているのです。

 

松平忠固(忠優)とはいかなる人物なのか

ただ、松平忠固は全くと言っていいほど歴史的に評価されていません

一つには、前政権である幕府の功績は明治新政府にとっては否定・批判すべき対象であること。

もう一つは、第一級資料が彼の政敵の家臣の日記なので、それを採用する後世の歴史家の評価が著しく低いこと。

しかし、経済人の端くれとして、現在の日本経済の原点である開国の功労者が不当な評価を受けているという現状は、黙っていられないものがあります。

このサイトでは、できるだけそれを分かりやすく証明していきたいと考えています。

 

 

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