井伊直弼の性格がよく分かる事件
開国の父と検索すると、検索上位にはほとんど井伊直弼が出てきます。
しかし、井伊直弼が日米通商修好条約締結に後ろ向きだったことは幕閣最終討議の席の状況でも明らかです。
いったい、彼はどういう考えを持ち、どんな性格をしていたのでしょう。
それをよく表しているのが『忍一件』と呼ばれる事件です。
ブログ【日本史エンタメ講座】さんが分かりやすく解説しているので転載します。
事件の顛末
嘉永三(1950)年、直弼が彦根藩世子(世継ぎ)となって4年目にそれは起きました。
*溜間・・・徳川御三家を除く全国大名の最高位の7家を指す
*常溜・・・溜間の中の上位3家。彦根藩井伊家を筆頭に、会津・高松。
*飛溜・・・溜間の中の下位4家。姫路酒井・松山・桑名・忍。事件の発端は飛溜の忍藩主松平忠国が「世子・忠矩を将軍に初目見させるとき自分が同道できない場合は同席に代わってもらって差し支えないか」という点について老中に伺いを立てたことにあります。老中が伺いの趣旨を認めたことを溜間に伝達しため、直弼の知るところとなりました。
下位の飛溜が老中に伺いを出す時は上位の常溜三家に相談するか挨拶するのが決まりでしたが、当時、常溜三家の当主は帰国して江戸におらず、井伊家世子の直弼が在府するのみでした。その為、松平忠国は挨拶の必要なしと判断して直弼の頭越しに直接老中に相談したのです。
要するに手続の問題ですから丁寧さを欠くきらいはあっても、文句の一つもいって済ませるのが世間の通例です。ところが、直弼は激怒して、わざと問題を大袈裟に扱いました。
「同席同道を依頼しながら、事前に井伊家はじめ常溜三家に挨拶を欠き、頭越しに老中に伺うとは不届きであり、かかる場合は親戚が同道する溜間席の先例にも反する」
直弼から横槍をつけられて驚いた忍藩は使者を井伊家に派遣して陳謝、溜間席の先例に倣い親戚同道と中身を改めて老中に伺い直したのです。
世子の初目見当日、実際には忠国が同道して済ませたため、先の伺い書の一件は無用の手続で終わるはずのところ、直弼は自分をないがしろにした忍藩への追及の手を緩めず、意図的に国許にいる会津藩主松平容敬、高松藩主松平頼胤と連絡を取って常溜三家で議する問題にまで発展させたのです。このため、忍一件の裁定は会津藩主松平容敬と高松藩主松平頼胤が出府する嘉永四年五月まで持ち越されることになってしまいました。
事の発端から一年近く経過して、ようやく直弼を加えた常溜三家の協議が実現しました。席上、直弼が忍藩再度の伺い書の内容が自分の例示した文面と異なることを指摘して、あらためて忍藩を譴責する事態となり、六月二十日、忍藩城使が彦根藩城使に取調方の不行き届きを陳謝したうえ、幕府にも不念書を提出して不都合を陳謝するという経緯により、ようやく一件落着に立ち至ったのです。
世子のときですらかくのごとし、いわんや藩主、大老となりしときにおいておや……。
些細な難癖に一年もかける
自分に挨拶がなかったというだけで、他家を巻き込み問題を大きくする、
しかも、その挨拶内容自体も「世継ぎが将軍にお目見えするのに自分が出席できない時は同格の者にお願いする」という至極当たり前のことで、内容自体ほんの取るに足らないこと、
さらに、実際は忍藩主自身が同席したのでその件はなかったことになったこと、
そんな言いがかりに対し、グダグダと一年も時間をかけること、
そもそも、直弼は藩主でなく世子なので文句を言う立場にさえない、ということ
彼が、いかに小さいことに対して難癖をつけ、その解決に一年以上もかける性格だと分かります。
そんな彼が歴史を変えるような大きな条約を締結する判断をしたとは到底思えません。
この忍一件のように、現状維持を強く望んだ、という説がやはり信ぴょう性が高いと思います。
開国に反対なら反対でよい
井伊直弼が開国に反対だったなら、そのように認識すべきでしょう。
上記のブログには、さらに興味深いことが記されています。
「日本の近代化の最大の障害となったのが井伊直弼である。
こういったら、おまえ、何をいうんだと十人いたら十人が私を非難し、白い眼で見るだろうと思います。
しかし、考え方からして守旧的で、確信犯的に時計の針を寛永祖法の時代に戻そうとした、と残念ながらこれが井伊直弼の実像です」
長井健史検事の説明は続きます。
「彦根の人が井伊直弼を美化するためにどれほどの歳月と労力を費やしたことでしょうか。
明治時代のことですが、彦根出身者は横浜港を見下ろす掃部山を買い取り、丘の頂に井伊直弼の銅像を立てました。
掃部山と名がついたのはそのためです。
いかにも横浜港を開いたのは井伊直弼だといわんばかりに聞こえます。
日本人はこの手のガセネタに弱いのです。
しかし、時の神奈川県知事周布政之助は事実に反することなので銅像を撤去しました。
ところが、郷土愛に燃える彦根の人はそれぐらいで諦めるものではありません。
周布知事がいなくなると井伊直弼の銅像をちゃっかり再建してしまい、そのまま時は流れて、気のいい浜っ子はガセネタをガセネタと思わず、教育委員会がつくる学校の副読本で井伊大老を開港の恩人としてしまったのです。
こうした小さな錯誤が積もって山となり、いつしか日本史は教科書日本史を幹として御都合主義的に枝葉を茂らせて事実とますますかけ離れていきました。
事実とかけ離れた評価の最たる存在が、実は井伊直弼なのです」
横浜開港百年記念切手の絵柄をご覧いただくとわかりますが、井伊大老の銅像が真ん中にでかでかと図案化されています。
事実を知らない人は横浜港の開港の恩人は井伊大老だと勘違いしてしまうでしょう。
事実、信頼抜群の教育委員会が勘違いして疑わないし、開港資料館の学芸員に至っては指摘を受けても知らん顔を決め込んでいるありさまです。
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