植物に意識がある
ドイツ林業委員会の職員ペーター・ヴォールレーベンさんは、400年以上前に伐採されたブナの切り株が生き続けているのを不思議に思っていましたが、その理由が周りのブナが根を絡めて切り株とつながって栄養を供給していたからだと分かりました。
イタリア・トリノ大学の研究者によると、木は仲間の根と別種の根を区別し、よそ者を排除することすらある。
中には緊密に根を絡め合い、夫婦のように一緒に死ぬようなものもある。
病気におかされたもの、あるいは飢えたものも識別され、回復するまで栄養を送り合ったりする。
ヴォールレーベン氏の森に生えるブナもそうした行動をとっている。
それはまるで、象の群れと同じで、仲間の面倒を見て、病気の仲間や弱った仲間がいれば助けるのだ。
そして、切り株から判明したように、象と同じく死者との別れすら惜しむのだ。
意志はどこから来る?
言うまでもなく、植物は生きています。生命です。
種から発芽し、成長したら茎の中を毛細血管のように通る道(水分が通る道を道管・養分の通る道を師管という)を使って水分や養分を行きわたらせる訳ですが、これだって意志ですよね。
水分を行きわたらせようという意志が働いています。
理系的にはDNAに仕組まれたプログラムなだけだという解釈もあるでしょう。
しかし、そのプログラム自体を創った意志があるのは明確なことだし、生きようとする意志があることも動かしようのないことです。
個人的には、根源に初めから Φ の流れがあって、それがいくつか合わさったものが意志となり、さらに合わさったものが意識となり、さらに合わさったものが自我となる、というイメージを持っています。
だとするならば、どの素粒子がどのDNAが意志なのか、という風に考えた方がいいのではないでしょうか。
意志は陽子である
昭和の時代、20歳前後の頃読んだ本で、とても衝撃を受けたものがあります。
特殊な本なのであまり一般的にはお勧めできませんが、『波動の法則/足立育朗』という本です。
そこには、こう書かれていました。
人間の意識は中性子、意志は陽子である
私は理系的な人間でなく超文系なタイプなので、物理的な法則だけでなくそこに哲学や意志を求めてしまいます。
足立氏のおっしゃることが間違いのないことなのか、現時点では確信できません。
ですが、そう言われてとても腑に落ちました。
素粒子とか物質にそういう意味・役割が備わっている、と考えればいいのだ、理は文も兼ねているのだ、と理解すればいいのだと。
植物にも神を感じてきた日本文化
日本人は古来より自然に神が宿ると考えてきました。
ご神木の例を挙げるまでもないでしょうから、上記の研究結果を聞いても日本人にとってはごく自然に受けとめられると思います。
日本では、縄文の古代より木を切ったら植樹をするという文化が育まれてきました。
ムーの伝説においても、木を切り倒すことは法律で禁じられていた、とあります。
人間は植物も含めて殺生せずには生きられません。
命を頂くことに都度感謝し、神社に祀って神に拝むという日本文化は本当に素晴らしいと思います。
そしてやはり科学的に解明していくことで、祖先から受け継がれてきたこの日本文化が確信をもって原点回顧していけると思います。
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