年表で見る『開国の父』候補者たち
井伊直弼が本当に開国の父か、年表で確認してみましょう。
下記の五人をピックアップしてみました。
阿部正弘・・・日米和親条約締結時の老中首座
松平忠固・・・日米和親条約・日米修好通商条約締結時の老中
堀田正睦・・・日米修好通商条約締結時の老中首座
井伊直弼・・・日米修好通商条約締結時の大老
徳川斉昭・・・御三家・水戸家。攘夷を訴え常に条約に反対
和親条約には全く関わりなく
阿部正弘や松平忠固が老中として、既に頻繁に来航している外国船に対して政府として対応していたのに対して、井伊直弼はまだ彦根藩主にさえなっていません。
阿部が、条約推進の忠固と攘夷の斉昭の鋭い対立の間に立ち、苦心しながら日米和親条約締結を成し遂げたかがよく分かります。
直弼はというと、その阿部に対して和親条約締結後すかさずクーデターを画策して失敗し、京へと異動となるわけですが、条約締結に対しては何ら関りを持っていません。
条約推進派も次々と粛清
阿部死去後は、忠固が主導し修好通商条約締結を目指します。
阿部死去前に就任した老中首座・堀田正睦は、積極的な開国派(阿部のこの人事だけでも阿部が開国を目指していたのが分かる)でしたが、無思慮にも簡単に勅許など得られるだろうと京都に行き斉昭派の術中にはまり、手ぶらで帰ってくるという大失態。
しかも「勅許を得るには松平慶永(斉昭派)を大老にするしかない」という言葉を真に受け、帰府早々に将軍に上申する始末。
そんな人事が通れば修好通商条約が白紙撤回になると危惧した忠固が直弼を大老にし、ここで初めて直弼が政府の舞台に登場します。
しかし直弼は、修好通商条約締結したその日、不服の為登城していません。
そして、開国派の忠固や堀田、条約締結を成し遂げた岩瀬や井上、水野、永井、堀という有能な初代外国奉行達を全員罷免するのです。
それは開国とか交易とかの次元でなく、政治権力的な行動しか見受けることができません。
前任者の死去により次々と出世
将軍家定の急死が忠固の権力基盤を崩し、家茂を担いだ直弼が幕府全権を握ります。
病弱で障害さえ疑われる家定(私はそうは思いません。いずれ書きます)ですが、それにしてもタイミングがよすぎます。
思い起こせば、もともと十四男で庶子(正式な婚姻関係にない両親から生まれた子供)だったので養子の口さえなく、32歳まで部屋住み(今でいうニート)だった直弼の出世は、前任者の死去によって成し遂げられていきます。
前世子(38)が死去し世子となり、前藩主(57)が死去し藩主となり、敵対した阿部(38)が急死し大老となり、将軍家定(34)が急死し新将軍の後見人として全権を握り、生糸貿易を確立させた忠固(48)の急死により彦根藩が横浜貿易をとって代わる・・・
疑念さえ湧きます、、が、少なくとも直弼は開国に尽力はしていないのが年表からも分かります。
【画像】日米修好通商条約批准使節を迎えるブキャナン米国大統領
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