大日本帝国を初めて名乗ったのは

『大日本帝国』を初めて名乗ったのは

幕末に関しては、教科書の記述が実は違うことが多いと感じています。

新事実が発見されても全然知られていないということもあります。

その中には驚愕の事実もたくさんあるので「なんとかそれを知ってもらいたい」と映画脚本を書いたりしてるのですが。。

その中でまず取り上げるのは、日本が『大日本帝国』と名乗ったのはいつかということです。

 

ペリーと条約を結んだ年に

嘉永7年(西暦1853年)3月3日、我が国はアメリカのペリー提督と日米和親条約を結んだわけですが、そのわずか5か月後の8月23日にはイギリスとの間で日英和親条約(日英協約)が結ばれます。

その時の協約の原文は以下の通りです。

此度大ブリタニア王国ノ軍船ウィンセストル総督ヤーメス、スティルリンニ相会シ、長崎奉行水野筑後守、御目付永井岩之丞、大日本帝国政府ノ命ヲ請ケ

一、薪水食料等船中必用ノ品ヲ弁ジ、又ハ破船修理ノ為メ・・・

(外国関係文書之七ノ一五一)

ペリーと条約を結んだ年、開国した年には既に江戸幕府が『大日本帝国』を名乗っているのは驚きですね。

 

江戸幕府は無能?

大日本帝国と名乗り始めたのは明治政府だというのが一般的ですよね。

大日本帝国憲法を発布したのは明治になってからなので、それは当然です。

近代化した明治に対して江戸幕府は、古くて無能で『ペリー来航に恐れおののいた江戸幕府が無能な故に開国させられた』というのが教科書や一般的なイメージでしょうか。

政権が変わると前政権を非難する、というのは古今東西、歴史の常套手段なので仕方がない部分はありますが。。

 

当時の阿部政権は…

ペリー来航時の江戸幕府は阿部政権(幕閣最高責任者が老中首座阿部正弘)。

実は、阿部政権下では外国との交渉においてすばらしい結果を残しています。

最も驚くべきことは、幕府無能説の象徴である不平等条約・日米修好通商条約が、実は条約締結時は不平等ではなかったという事実です。

その話はまた次の機会に致しましょう。

 

【出典】幕末五人の外国奉行(土居良三)

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