松平忠固とはいかなる人物か
日米和親条約及び日米修好通商条約締結を主導した老中・松平忠固とはいかなる人物なのか。
彼は上田藩主ですが、元々は姫路藩・酒井家の出身です。
酒井家と言えば譜代大名の筆頭であり、全国三百余の大名家のうち大老になることのできる四家の一つ。
(大老は井伊家・酒井家・土井家・堀田家の4家しか基本なれなかった)
徳川家の御三家や御家門親藩を除いた中で、最高の家柄と言えるでしょう。
36歳の時に老中に昇進、41歳で老中としてペリー来航を迎え、日米和親条約を締結します。
43歳で一度老中を辞職し、45歳で次席老中として再任。
46歳で日米修好通商条約締結。
締結二日後に登城停止、四日後に老中罷免。
条約締結翌年、横浜開港後に48歳で死去しています。
当時の歴史的背景
確認しておきたい歴史的背景が三つあります。
一つは、当時は倒幕という言葉もなければ、幕府が倒れるなどということは夢にも思わない状況であったこと。
倒幕という思想が生まれるのは、井伊直弼が暗殺される桜田門外の変の後のこと。
日米和親条約締結時は老中首座・阿部正弘の時代。
阿部は、開国を目指す忠固と共に二人三脚で幕閣を運営しつつ、開国を反対する当時最大の権力者である御三家・徳川斉昭や幕末一聡明との呼び声高い薩摩藩主・島津斉彬、越前親藩・松平慶永(春嶽)とも強調しながら、政事を行っておりました。
二つ目は、幕閣を構成するのは譜代大名のみであること。
いくら家柄が高い徳川御三家や親藩であっても老中になることはできないし、政府である幕閣に入閣することができませんでした。
それは、創始者・徳川家康が家門同士の権力闘争を排除するために、わざわざ10万石以下の譜代大名のみに政事を担当させる、という智慧から来たもので、その家康が作った仕組みは見事に機能し250年も幕府政治は継続することになります。
三つ目は、当時は天皇は全く政事には関りがなかった、ということ。
修好通商条約締結時に天皇の勅許が大きな問題になりましたが、和親条約締結時には天皇家は全く浮世の外の人であり、政事を伝えることさえありませんでした。
勅許については、先日年配の方とお話ししたとき、全く分かってもらえなかったので、別の機会に詳しく触れたいと思います。
譜代幕閣vs親藩外様の政治参加
そのような背景を踏まえると、『尊王攘夷vs佐幕』という対立の図式はまだなく、外様の雄・島津斉彬は開国に賛成で攘夷と騒いでいたのは徳川斉昭だけでしたので、『攘夷vs開国』という対立図式も深刻な状況にはありませんでした。
実は対立の図式は、一般的に思われている上記2つの図式ではなく、現行の譜代大名幕閣体制に対する水戸斉昭・薩摩島津・越前慶永らの親藩・外様の幕閣参加要求、譜代幕閣vs親藩外様という図式なのです。
水戸家や薩摩藩は政権に参加する為に、政治手段として『攘夷』や『天皇家』を持ち出すようになり、うまくすべての勢力を融合させていた阿部首座が死去すると、一気に政治が乱れ始めます。
阿部亡き後、忠固は井伊家の当主を大老に据えます。
ここではじめて大老・井伊直弼が政治の舞台に登場します。
実は、32歳まで部屋住みで江戸城に登城したことさえなかった直弼を大老に据えたのは忠固であり、忠固は譜代幕閣政治を守るというよりは開国するのみ、水戸や薩摩に対抗するというより条約締結を進める為に直弼を大老にしたのです。
結果としては、直弼が越前慶永と申し合わせて『無勅許』を理由に忠固を老中罷免に追い込み、独裁体制に突き進んでいくわけですが。。
全ての陣営から敵と目された忠固
井伊大老側からも水戸薩摩ら改革側からも『敵』と見なされた松平忠固。
さらに現政権の流れである維新(薩摩・長州)側から見ても『敵』ゆえに、全く歴史的な低評価になっていると思われます。
ですが、彼こそが真の開国の父だと確信いたしますし、それを主張したいがために彼の歴史ドラマを描いた映画脚本を書いたわけですが、それはおいおい発表できればと思います。
開国に突き進んだ松平忠固、彼の強い開国思想、それはその遺訓からもうかがえます。
「交易は世界の通道なり。皇国の前途は交易によりて隆盛をを図るべきなり。世論轟々たるも聞くべきの通道必ず開けん。汝らもその方法を講ずべし」
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