シンポジウムのパネリストに
随分とブログ更新が滞ってしまって、申し訳ありませんでした。
11月12日開催の松平忠固シンポジウムにパネリストとして参加することになり、準備に追われていました。
映画脚本の大幅な書き直しもして臨んだ結果、及第点の発表はさせて頂けたと感じております。
その達成感からかこの一か月は創作意欲が減退してしまい、年末にまで至ってしまいました。
本日シンポジウムの簡単な報告と、年内あと一、二回更新して2017年を総括したいと思います。
発表した内容①:条約締結時の内閣人事
まず真っ先に訴えたかった「日米修好通商条約は締結時は不平等ではなかった」ということについては、基調講演をされた関先生が発表されたので、私は条約締結時の内閣の説明を致しました。
1854年日米和親条約時(阿部と忠優【=忠固】が二人三脚)
老中 :阿部正弘・牧野忠雅・松平乗全・松平忠優・久世広周・内藤信親
勘定奉行:松平近直(阿部派)石河政平(忠優派)
交渉全権:林大学頭(阿部派)井戸覚弘(忠優派)
将軍側役:本郷泰固(阿部派)
1858年日米修好通商条約締結時(忠固が中心)
大老 :井伊直弼
老中 :堀田正睦・松平忠固・久世広周・内藤信親・脇坂安宅
勘定奉行:川路聖謨(忠優派)永井尚志(阿部派)
交渉全権:岩瀬忠震(阿部派)井上清直(忠優派)
将軍側役:石河政平(忠優派)
ペリーとの交渉時は阿部と二人三脚で、ハリスとの交渉では亡くなった阿部派の優秀な官僚も使って完全に忠固が主導しています。
そして、徳川斉昭ら攘夷派に対抗する為に、一夜にして守旧派の井伊直弼を大老に据えた、という説明を資料を基に行いました。
発表した内容②:会社経営者としての視点
会社経営者としての視点なら学者先生の見方とは違う視点になるのではないか、と思い、組織論的アプローチをしました。
組織運営で抑えておくべきポイントは、【人事】と【財務】であると考えているからです。
忠固は①の通り【人事】を掌握し、そして【財務】を勘定奉行・石河政平によって管理下に置いていたと思われます。
そして、石河政平を見ることが忠固の、そして条約締結時の実態をひも解く鍵だと述べました。
1843-1855 石河:12年にわたって勘定奉行
1855/8/ 4 忠優:老中更迭
1855/8/ 9 石河:勘定奉行辞任
1857/9/13 忠固:老中再任
1858/4 石河:将軍御用取次就任
1858/4/23 忠固:直弼を大老にする
1858/6/19 日米修好通商条約締結
1858/6/21 忠固:登城停止
1858/6/23 忠固:老中罷免
1858/7/ 6 将軍家定死去、将軍家茂就任(井伊直弼へ権力の交代。そして安政の大獄へ)
1858/7/ 6 石河:将軍御用取次罷免
次回のシンポジウムは…
主催者である明倫会(上田藩士末裔の会)様のご尽力により会は成功裏に終了し、パネリストとして招致頂いたことと合わせ、この場をお借りして心より御礼申し上げます。
「今後、松平忠固の偉業を正当に評価されるよう引き続き邁進していきましょう」ということで、次回シンポジウムも開催する運びともなりました。
私も本当に微力ではありますが、何かお役に立てることがあれば、心から嬉しいです。
引き続き、研究を続けさせて頂こうと思います。
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