【開国の父③】これほど歴史に無視された人はいない

日本経済の恩人、と言える人なのに

『真の開国の父』であり『日本経済の恩人』とさえ私は思ってしまう松平忠固ですが、彼ほど歴史に無視され、全く評価されていない人物はいないのではないでしょうか。

その低評価の要因の一つに、『昨夢紀事』という文献があります。

これは、越前藩家老の中根靱負が当時の状況を記した著作で、学術的に第一級資料として取り扱われているのですが、ここで松平忠固は「傲慢で浪費家で…」等とかなりくそみそに書かれています。

現代の高名な歴史学者の皆様は、この昨夢記事に書かれた忠固像を採用して低評価につながっていると思われます。

しかし、中根の主君である越前藩主・松平慶永は忠固の政敵。

いえ、政敵というより当時は親藩御家門であろうと幕閣に入ることは許されなかったので、幕閣の中心にいた忠固は話さえ聞いてくれない、政敵にさえしてくれない憎き相手なので、中根が忠固を悪く書くのは当然だと思うんですよね。

 

長州藩・維新側にとっても恩人

現在の政権は明治維新政府の流れを汲んでますので(安倍晋三首相も長州ですし)、前政体である江戸幕府を下げる教科書記述が変わらないのは仕方がないかもしれませんが、旧幕側である井伊直弼などは近江商人の力なのか今では復権し、開国の父として横浜に銅像が立っています。

ですが、忠固は長州藩や後の維新側にとっても、実は恩人のはずなのです。

後に明治維新を達成した桂小五郎(木戸孝允)や高杉晋作、伊藤博文らの師匠である吉田松陰を老中だった忠固は何度も助けています。

wiki がまとまっているので、下記に転載します。

 

吉田松陰を助けた松平忠固

日米和親条約の調印後、吉田松陰による密航事件が起こり、松陰とその師の佐久間象山が投獄された際、開国派の忠優は2人に同情し、何とか救済しようと尽力。

国元蟄居という軽い罪で穏便に処理した。

2度目の老中就任に際し、忠固は佐久間象山を赦免しようと動いた。

安政4年7月、萩の松陰のもとを上田藩士の櫻井純蔵と恒川才八郎が訪れ、象山を赦免しようとしている忠固の意向を松陰に伝えている。

松陰はその事実を知り、忠固を深く敬慕する共に、櫻井と恒川を通して象山の赦免を忠固に重ねて働きかけている。

安政4年10月29日の桂小五郎宛ての書簡の中で、「而して僕獨り上田侯に眷々たる(思い慕うさま)ものは、櫻井・恒川二子の言猶耳に在るを以てなり」と記し、忠固を敬慕する心情を吐露している。

wikipedia 松平忠固

 

忠固が松陰に与えた影響

当時、外国渡航は国禁中の国禁、問答無用で死罪という違法行為であり、連座して松陰の師匠である佐久間象山まで罪を問われましたが、軽い罪で済んだのは時の権力が働きかけたからでしょう。

特に佐久間象山は松代藩士であり、松代は忠固の上田藩の隣で元は同じの真田の領地。

象山は幕閣が公式に西洋の調査をさせていた当時一・二を争う西洋通であり、海外との交易を目指していた忠固にとって、国禁を犯してまで海外渡航を図ろうとした松陰は何とも輝いて見えたことでしょう。

無罪放免に動いていた忠固の突然の罷免、そして急死。

吉田松陰が「幕府転覆、老中暗殺」という過激を叫び出したのも忠固が失脚させられたのがきっかけだったのではないでしょうか。

 

 

 

 

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