日米修好通商条約の最大の誤解

勅許を無視して

日米修好通商条約が評価されない理由の一つが『不平等条約』と言われること。

しかし、評価されない理由にはもう一つ、不平等をも上回るものがあります。

それが『勅許を無視した』ということでしょう。

勅許を無視したからこそ、条約自体が顧みられず、幕府の評価がおとしめられ、それを理由に罷免された松平忠固などは歴史に名を遺すにさえ値しない、そして、それが今でも連綿と続いている・・・

驚いたのが、上田ご出身の方とお話しても、当時の藩主である忠固を評価する人はほとんどいないどころか、戦中を過ごされた年配の方などは特に、勅許に従わなかったということで、恥ずべき人物とさえ思っている始末です。

勅許というのは日本人にとって本当にすごい効果があるし、この常識を覆すのはほとんど無理と思えてしまうほどです。

 

勅許は、一つの政治カードに過ぎなかった

ですがその当時は、帝や京の了承など全く必要なかったのです。

阿部正弘老中首座時代の日米和親条約締結など、了承はもちろん報告さえ必要ありませんでした。

授業で習ったはずですが、禁中並公家諸法度にて帝や公家は政治への関与を禁じられていたからです。

それを、御三家・水戸家の徳川斉昭が執拗に『京』を持ち出し、その時だけ内々に認められたのが『報告』です。

しかも、幕閣が仕方なく和親条約締結(嘉永7年3月3日)の報告をしたのは条約締結から1年6か月も後のこと(安政2年9月18日)です。

斉昭が『京』を主張したのは、帝の権威を利用して『幕閣に参加する』或いは『現状の老中主体の幕閣制度を改める』もしくは『次期将軍を息子である徳川慶喜にする』という極めて政治的な狙いからです。

すなわち、勅許は幕閣を揺さぶる政治カードの一つに過ぎなかったのです。

 

阿部正弘の見事な対応

それに対して、特筆すべきは阿部首座の対応です。

安政2年9月18日、禁裏付・都筑峰重を京都に派遣、米露英三国との条約書写を交付して、外国事情を陳述させた。
下田奉行としてアメリカとの交渉に加わった都筑は、よく現地の経過を説明したに違いない。
このことを予想して、正弘はすでに5月、彼に禁裏付を命じている。
さらにさかのぼれば、嘉永5年、浦賀奉行・浅野長祚を京都町奉行に任じている。
彼は詩文に優れ書画の鑑賞に通じ蔵書数万巻と称せられる、当時幕府内では最高の教養人であった。
在任中、洛中洛外の山稜を調査、「歴代廟陵考」を著していて、当然朝廷の覚えもよかったはずである。
浅野も都筑も京都の事情を意識しての正弘の周到な人事であった。

『開国への布石』土居良三

その適材・適所・適時の人事によって、時の帝・孝明天皇も

老中の苦心、主職の尽力、深く宸察あらせらる

『開国への布石』土居良三

と老中に対して最高の賛辞を送っています。

 

 

幕府衰退の痛恨の一撃

その後、阿部が急死してしまい、修好通商条約締結を目指す忠固は、斉昭に対抗して井伊直弼を大老に据え、

しかし、直弼は開国に後ろ向きなので締結に抵抗するために、直弼まで京カードを用い、

最終的に忠固が押し切り日米修好通商条約が締結されるも忠固は罷免、と流れていくわけですが、

忠固罷免の理由である『勅許がない』ということには何ら法的根拠などないのです。

逆に、水戸家も井伊大老家も帝を表に出すことで、幕府の存在理由自体を根本からぐらつかせてしまいました。

家康が幕閣を不動にするために法度を作り、阿部正弘が細心の注意を払って取り扱い、松平忠固が愚の骨頂と厳しく斉昭と直弼に言い放った『京のカード』。

軽々しく用いたそのカードが幕府にとっての痛恨の一撃となっていきます。

 

【画像出典】史料にみる日本の近代 日米和親条約写

 

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